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紹介
日本がかつてない大飛躍をなそうとする前夜、将来の日本の歩むべき正しい道を示そうと努力したひとりの人物かいた。それが横井小楠だ。
「国家は富みだけはいけない、また軍備を増強するだけでもいけない。地球上で一番大切なのは、お互いにその立場を認め合い、お互いがお互いをゆるす寛容の心なければならない」と説いた。

肥後藩には時習館(じしゅうかん)という藩の学校があった。
そこで小楠は抜群の成績で、1837(天保8)年には居寮長(きょくりょうちょう)(塾長)に抜擢されました。
そして2年後には江戸遊学を命ぜられ、水戸藩士・藤田東湖(ふじたとうこ)などとも意見をたたかわせていたのですが、酒の上の失敗で熊本に呼び戻されました。
熊本に戻った小楠は、長岡監物(ながおかけんもつ)、下津休也(しもづきゅうや)、荻昌国(おぎまさくに)、元田永孚(もとだながざね)らと研究会を始め、文章や字句の解釈だけに力を注いでいたその頃の肥後の儒学に対し、現実に根ざした学問のあり方を示しました。これが実学党の起こり。
やがて小楠は塾を開き、そこに一番に入門してきたのが徳富一敬(とくとみかずたか)(蘇峰・蘆花の父)でした。竹崎茶堂(たけざきさどう)、矢島直方(やじまなおかた)(竹崎順子、徳富久子、横井せつ子、矢島楫子の兄)が続いて入門。
1849(嘉永2)年、越後藩の三寺三作(みでらさんさく)が諸国遊歴の途中、小楠を訪問。その説に大変感激して帰りました。
1852(嘉永5)年、「学校問答書」という建白書を書きました。この教育論には吉田松陰も大変関心し、長州藩にも推薦しようとしました。

吉田松陰は、ペリーが浦賀に来た1853(嘉永6)年10月、小楠を訪ねてきて、終日話し合っています。
1855(安政2)年、沼山津に転居した小楠は、この住まいを四時軒(しじけん)と称して、塾を開きます。主張するところは攘夷論から開国論へ移っていきます。越前藩主・松平春嶽(まつだいらしゅんがく)からの招きで、1858(安政5)年から福井に行くことになります。やがて松平春嶽が幕府の政事総裁になったので、小楠も江戸に出て春嶽の大事な相談役をつとめ「国是七条(こくぜしちじょう)」も建言しました。ところが江戸詰めの肥後藩士と酒宴中に暗殺団に襲われ、同僚を見捨てて逃げたというので肥後藩から罰せられ、沼山津に一平民として暮らすことに。
しかし日本は小楠を捨ててはおかなかった。勝海舟の使いで坂本龍馬が訪ねてきました。1866(慶応2)年には勝海舟のはからいで、2人の甥・横井左平太、太平をアメリカに留学させています。

維新になると新政府は、小楠を参与という位で京都に呼び出しました。岩倉具視(いわくらともみ)は、木戸、大久保らの参与の中でも、とくに小楠を頼りにしており、よく相談したものです。
小楠はまさに新日本の政治家として重要な地位になったのです。
しかし、翌1869(明治2)年1月5日、太政官(だじょうかん)に出仕して退朝する途中、暗殺者たちに襲われ、短刀を抜いで防ぎましたが、病体でもありついに力尽きて倒れました。時に小楠61歳。
墓は京都南禅寺の天授庵(てんじゅあん)にあり、遺髪は熊本に持ち帰られ小楠公園に葬られています。
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