• かくれねんぶつ はなたて(かくしせきぶつ)
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紹介
人吉・球磨地方は「仏の里」です。独特の仏教文化圏が形成され、現在もこの地方の風土の一部となっていますが、 そこには特異な歴史が秘められています。相良藩による浄土真宗(真宗・一向宗)の禁制です。それも300余年という長きにわたって 続けられました。しかし、かくれキリシタン同様、かくれ念仏の信仰の灯は消えることはありませんでした。 ただ、ここで注意してもらいたいのは「かくれ念仏」といってもすべての念仏が禁じられたわけではありません。 相良氏の菩提寺・願成寺にも「南無阿弥陀仏」と刻まれたお墓があるように、ご法度とされたのは浄土真宗とそれに日蓮宗に限られました。 また、真宗禁制は全国でも相良藩とお隣の島津藩だけと説明されてきましたが、宮崎の高鍋藩や琉球でも行われました。

浄土真宗は開祖親鸞の死後、本願寺を本山とし、幾多の曲折を経て蓮如の時代に隆盛を極めます。 加賀国を領国とした一向一揆や織田信長と死闘を展開した石山合戦などはよく知られています。浄土真宗は一向宗とも呼ばれますが、 本願寺ではこの呼称を嫌い、「浄土真宗」と名乗るべきと説いています。しかし、本願寺と門徒の間にはそれぞれの信仰において 少しずれがあったようで、「一向宗」とは門徒独自の信仰といえるでしょう。相良藩が禁制としたのも一向一揆に見られる戦闘的な組織力を 危険視したからにほかなりません。


痛ましい犠牲者・山田村の伝助

相良藩の取り締まりは厳しいものありました。宗門奉行を頂点に村々に監視の目が張り巡らされ、毎年、春と秋には「宗門改め」が行われました。 さらに檀那寺からは「寺請証文」、村からは「宗門人別帳」、五人組からは「証文」を出させるなど徹底していました。 これに抗して門徒たちは秘密の「講」(信仰集団)をつくり、それは親から子へと受け継がれていきました。講には「仏飯講」「相続講」などがあり、 領外の浄土真宗のお寺を通じて本山の本願寺への上納も行われました。こうした金銀流出という事態も相良藩が禁制という措置をとった 理由の一つです。

「一向宗のもとは他方より来り候する」と記録にありますが、真宗僧侶の潜入も絶えませんでした。彼らは油売りや薬売りなどに変装して布教に 努めました。その一人に天草からむしろ打ちの職人に化けて入った僧侶がいました。亡くなったとき本名がわからず「むしろ筵打御坊」とだけ墓に 刻まれましたが、思慕の念を寄せる門徒の数は1200人にも及んだそうです。そこには並々ならぬ信仰心、団結力の強固さがうかがえます。

「毛坊主」と呼ばれる人もいました。これは「講」の世話役で、必要なときに僧侶の代わりをしたり、領外の真宗のお寺との連絡役などを務めました。 正式の僧侶でなく有髪妻帯の俗人なので「毛坊主」というわけですが、彼らの存在は大きく、長い禁制を耐え抜いた原動力でした。

その象徴的な人物が山田村の伝助です。寛政8年(1796)発覚、獄門に処せられました。私たちは普通打ち首を最高の刑と考えがちですが、 獄門は見せしめのための引回しの上はりつけという最も重い刑でした。それだけ相良藩は真宗に神経をとがらせ厳罰をもって臨んでいたわけです。 今、山江村(明治22年、山田村と万江村が合併)の合戦峰(かしのみね)に殉教者・山田村伝助の墓供養碑が残されています。
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